apr. 2010
 
グラン・パレ・ナショナル・ギャラリー
後期ルノワール展
 

Galeries nationales du Grand Palais
Renoir au XXe siecle




3, avenue du General Eisenhower
75008 Paris
www.rmn.fr/Renoir-au-XXe-siecle


 






































 グラン・パレは、プティ・パレやアレクサンドル3世橋とともに1900年パリ万博万国博覧会のために建てられた大規模な展覧会場である。

 古典的な外装は、石造りに鉄とガラスを駆使したアールデコ特有の装飾が施され、ファサードは初期のボザール建築の典型例とされる。1993年のガラス屋根崩落後12年間の改修を経て、現在は、中央スペースではメゾン系ブティックのファッションショー等が開催され、国立グランパレ美術館と科学技術館が併設されている。

 1964年にピカソ回顧展とアフリカ美術展で開館したこの美術館は、印象派から現代美術までさまざまな展覧会が開催されている。今回も大御所抜擢で、後期のルノワールに焦点を当てた展示100点を超える展覧会が昨年9/23から今年1/4まで開催された。

 1841年、ルノワールはリモージュで仕立職人の父とお針子の母の7人の子供の5番目に生まれた。3才でルーブル美術館のそばに移住し、12才で磁器工房の絵付け見習いとなった。21才で官立美術学校に入学し、ルーブル美術館の模写許可証を得て4年間通い詰め、国立美術館の修復も手がけていた。

 ルノワールといえば、印象派の一人として周知されているが、印象派の中ではもっとも伝統的な画家と位置づけられている。

 フランス革命前の文化的伝統はまだギリシャ・ローマ文化であり神話と聖書の題材を写実的に描くことであった。一方、印象派の作家たちは現実の姿、日常の生活を主題に制作し、しかも自分たちの意志で発表するという全く新しい様式を確立しようとしたのである。しかしルノワールは、印象派展1回(1974)〜最終の8回(1986)の最初の3回に参加したものの、その後は7回に出品しただけで会場にも姿を現さなかったという。この「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社」は作家同士で支え合う画期的なものであったが前途多難であった。

 1870代後半は、肖像画の依頼が増え1879年には《シャンパンティエ夫人と子どもたち》が、翌年には《舟遊びの人たちの昼食》がサロンに入選した。この年、将来の妻となるアリ−ヌ・シャリゴと出会い、第二の人生のスタートとなるイタリア旅行に出かけることになる。1880年代になると、ルノワール自身「印象派は袋小路になってしまった・・。」というように古典主義の探求に傾いていった。

 しかし晩年の1890年代に入ると、ルノワール本来の暖かな色調にもどるが、裸婦たちはますます豊満になりかなり肉々しいほどであるが、ふくよかな肌の微妙な色合いは実作を見てはじめて「研究された技巧」であることがわかり、
作品の大きさも迫力を添えている。

 1903年からは南仏のカーニュに移り住み、1919年に肺充血のため78才で死去する。画家としては長命ともいえ、リューマチに悩まされながらも最期まで制作し続け成果は4000点を下らないといわれている。


 東京・国立新美術館の「ルノワール展」も今週終了したばかりだが、同じ作家の二つの展覧会を見較べるとその展示構成・扱う時期によって随分と印象が変わってくるということだろうか。 

 



 


 

●linlin


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